第10章 エア王国  〜1節 人権〜

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いつの時代も人権を主張する者がいるが、それは己の視点のみによる想像力の足りない愚かな主張である。
まず、そもそもとして人という存在は魂にとっては器であり、獣にとっては皮であり、
神や悪魔にとっては機械や人形のようなものだ。
その人間は人の皮を被った狼かもしれないし、犬のような奴もいれば、水を得た魚のような者もいる。
人の姿に化けた悪魔かもしれないし、人の身体を借りた神や天使かもしれない。
宇宙の彼方から飛来した漂流者、旅行者にとっては着ぐるみのようなものかもしれない。
人間の本質とは人ではなく、何か、である。

ゆえに人は人を説明する時、揶揄する時は人以外の、何か、に例えるのだ。
「人として」「人間として」と語る場合の意味は
「人の身体を持って生きるなら」「人と人との間の社会で生きるなら」
最低限の規則や節度を守り、保ち、時には隠し、配慮すべき、という生きるための理想だ。
理想は本人の中で活かすべき事であり、他人に押し付けるものではない。
なぜならば、己は人であっても、他人は人以外の、何か、であるかもしれないのだから。

また、魂についても、階級というものがある。
王、神官、騎士、商人、農民、召使い、といった階級もあれば
過去世から引き継ぐ罪と罰や、積み上げた得の度合いもある。
その生き方が、懲罰である者、ご褒美である者、保護観察にある者、猶予期間中でる者、
人にとってそれぞれであり、その度合いが目の前の現象に当てはまるわけではない。
王や神官に生まれながらも幸せとは限らない、不自由な者もいるだろう。
貧困に生まれても不幸とは限らない、自由を謳歌している者もいるはずだ。

それらを人権と一括りにし、全ての人に平等な権利を、というのはいかがなものだろうか。
過去世からの不勉強や配慮不足の罪から今世は補習中の者と
勤勉で善行を積み上げたがゆえに昇格した者を同等の権利で扱うというのは
もはや平等ではなく不平等極まりない事だ。

その人権と呼ばれる類のものは、地域や民族、時代によっても度合いが変わる。

 

中でもエア王国という国は、その国の人々が言う人権という存在が外から見れば矛盾を抱えたものであり、
ほとんどの人がそれに気付いていない、という不思議な国民性であった。

まず、祖先について。
この大地にはいくつかの国や町、村、民族がいるが、最初からそうだったわけではない。
気候の変動や食べ物等を求めて、人々は移動と定住を繰り返してこの形となっていったのだ。
つまり、根本に流れている血は同じものなので、エア王国の人々の血を遡れば、
他部族の血にも行き着くはずなのだが、国民は国の中までしか遡らない。
祖先は敬っても、それはエア王国の中までで留まらせている。

次に移民について。
祖先の理由と似ているのだが、他の部族は移民を受け入れる。
元は同じ部族だったのだから親戚のようなものだ。
事情を抱えた他部族の者が流れ着いた場合は、他国では本人が望むのであれば受け入れるのに対し、エア王国は基本的には受け入れない。
受け入れるにしてもその審査や手続き、条件が厳しいのだ。
それなのにも関わらず、他部族が災害や食糧難の関係から止む終えず移民を受け入れられない状況の時、非難や同情の声を上げる者がいるのだ。
自分達は受け入れない癖に。

そして、人種差別、職業差別に収入など人を人種や職業で差別するのは人権に関るので良くない、
働く者には最低限の収入を保証しようという法がある中、エア王国内には画期的な店があった。
全ての生活品が10枚の銅貨均一で購入できる銅均ショップというものがあり、
品質は安価なために劣るが庶民にとってはありがたい存在であった。

しかし、なぜそのような安価が成り立つのか、それは他部族が低い賃金で働いているからだ。
これが矛盾点である。
自分達は人権から最低限の収入を求めるのに、同じ人間でも他部族が低賃金で働く事は許容しているのだ。
エア王国の国民が考える差別や人権というのが、外から見れば実につじつまの合わないものである。

 

砂漠の民ムシュ・バなどは、その地形や気候から、貧しい部族だ。
しかし、低賃金でも物を作ればエア王国の銅均ショップが買い取ってくれるため、
その部族にとっても生活を安定させる重要な労働であったのだが
ある時、人権を訴える者がこう主張した。
「他部族でも同じ報酬を与えるべきだ、品質を上げて、その分の収入を与えよう」と

そういった改革から、高品質な物が増え、銅均ショップは無くなった。
街には高級品が多く出回ったが、庶民にとっては気軽に買える金額ではないため、
生活は苦しくなり、貧富の差が激しくなったのだ。
そして物が売れずに余るので、生産を止めるしかない。
結果、他部族の仕事は無くなり、貧困はさらに大きなものとなった。

 

さらに、同時期に上がった声が、「召使い」の撤廃である。
料理、掃除、それぞれ専門の家系で受け継がれた召使いの制度が廃止され職業選択が出来る自由の身となったが、
召使いの家系に生まれた者が、いきなり職業は自由と言われても何をすればよいというのだ。
頭脳も体格も手先の器用さも、家系の遺伝によって大きく決まる。
運動や勉強に優れた家系は必然的にその能力が受け継がれるのだ。
また、召使いの家系は、その仕事でしか生きられないため、その仕事に誇りを持ち、
もし仕事で不備が生じても一族全体でその責任を持つ。
例えば、掃除専門の召使いの家系があったとする。
もし汚れを見落とした場合、その者は一族内で厳しく注意され再教育を受ける。
その間一族から代わりの者を派遣するのだ。
一人でも手を抜く者がいたり、欠員を出すと、一族全体の信用に関わってしまうためだ。
一族全体で掃除の仕事に責任と誇りを持っておこない生きてきた中
「生まれながらに掃除の仕事しかさせないのは人権問題だ」との声が上がり
掃除の一族は職を失った。

そして、一個人が個人の収入のために掃除の仕事をすると、手を抜く者が現れるどころか、
仕事先の金品を盗む者も現れる。
そうなると、わざわざ他人に掃除をさせなくても、家庭内で掃除を分担すればよいのでは?
という考えも生まれ、こうした連鎖から失業者で溢れていったのだ。

こうして、人権によって生まれた政策が、エア王国どころか、他部族をも苦しめる事となった。

 

最後に付け加えるが、召使いを雇う王族や神官は、召使いにも敬意を払う。
掃除をする者にも「いつもご苦労様」と声をかけ、無下には扱わない。
服が汚れても「この服を洗っておけ」と命令はしない。
召使いの方から「お預かりします」と申し出て、家主は「ありがとう」と答えるのだ。

住む場所や食事にも差を付けているのではない。
住み込みの者と一緒に食事をとらないのも、気を使わせないためだ。
召使いが一日の仕事を終えて自分の時間を過ごしている時、家主が善意で豪華な食事に誘ったとしても、
それは仕事の延長でしかなく気は休まらないだろう。

家主と召使いの間柄を差別だと訴えるのは、それに関わった事の無い者の偏見である。

こうして、無責任な人間の唱える、無責任な人権問題が、無責任な政策と、
無責任な人間を生み出し、国力の低下を招いてしまったのだ。