第17章 相思相愛

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人間には三大欲求というものがある。
食欲、性欲、睡眠欲である。
それぞれには好み、得手不得手というものがあり
柔らかなベッドでないと寝られない者、枕が変わると寝られない者
真っ暗では怖くて寝られない者、一人では寂しくて寝られない者
逆も然り、である。

 

次に食欲、これは本当に好みが分かれる。
肉食、草食、雑食と3つに分けられるが、アレルギーというものもある。
アレルギーが多く食事制限がある者もいれば、無い者もいる。
アレルギーならまだ分かるが、好き嫌いという物があり、加えて食わず嫌いというものもある。
そういった意味では性欲とは食欲ととても良く似ている。
特に、好き嫌いについてはどうしようもない。

人間という存在は実に一貫性の無い矛盾をはらんだ生き物であり、
分かりやすいのが、牡蠣というものがある。
牡蠣が嫌いな者、生牡蠣は苦手だが焼いたら食べられる者
今まで苦手だったが、新鮮な生牡蠣を食べて美味しさの虜になる者
好きだったが食あたりをしてからは苦手になる者もいるし、懲りずに食べる者もいる。

 

性欲は、食欲に例えるのがよい。
一貫性の無い場合は牡蠣を例に出すのがよい。
加えて、味覚というものは年齢と共に変わる事もある。

この食欲については皆、一定の理解があるのだが
性欲についてはその差が激しい。
食は、好き嫌いがなければ敬意の対象となるが
性欲は好き嫌いが無い者はしばしば「変わり者」として見られる。

いや、食も地域や民族によっては何でも食べる者を「変わり者」と見られる事がある。
例えば、海老を食べる民族にとって海老はごちそうであるが、
ザリガニを食べるのは考えられないという者がおり、
貝は好きだが、カタツムリやタニシを食べるのは考えられないという者もいる。
動物の肉は好きだが、丸焼きは止めてくれ、せめて頭は取ってくれ、という者もいたかと思いきや、
魚や虫であれば頭ごと食べたりもする。

なんでも好き嫌いなく食べなさいと子供に教えたかと思いきや、
カエル、ヘビ、鳥のヒナを食べるのは野蛮だ、と訴えるのに、
ところがどっこい夏の土曜日はこぞってウナギは蒲焼で食べる民族もいる。
形状だけでいえばヘビとウナギは似ており、さばき方も似ているのだが、
「ヘビとウナギは全然違うものだ」と主張する者の方が多いかもしれない。

この例え話はずっと続けていられるので
多くの判例を上げる事で「なるほど」と参考にする者もいるだろうが、
同じような例え話が続き、飽きてきたので話を進めて欲しい者もいるであろうから、そろそろ結論に入る。

結論は、食の文化も、性の文化も、その言葉通り文化の違いである。
宗教の違いと言ってもよいし、政治の違いであると言ってもよい。

宗教で貝や蛸を食べるのを禁じている国からすれば、それらを食べる他部族は異常者に見えるであろう。
そして、同性愛を禁じている国からすれば、同性愛者を異常者として見るだろう。
宗教で禁じていなくても、全体の過半数がそうなのであればそれが正しく、
少数派の指向を思考や趣向と捉え「変わり者」の目で見る国もある。
いやいや「変わり者」は正しくない。
正しくは「自分とは違う」である。
自分と違う者は変わった者なのである。
そしてこれまた不思議な話なのだが、その「変わり者」からすれば「みんな同じ」に見えている場合が多い。

 

さて、この食欲と性欲の話は、どの例え話が共感しやすいであろうか。
もちろん、一切共感できない者もいるだろうが、こちらは問題ない。
なぜならば、宗教、文化、政治の問題なのだから、相なれなくても仕方が無いというものだ。

問題無い。
思いを兼ねる者は理解している、オモイカネは理解してるのだ。
仮に政治の問題として、タジカラヲとクノイチ以外の結婚は認めないとしても、問題無い。
私を誰と思いかね?どちらの思いも兼ねるものぞ
なぜならば、国というものは国民が増えなければ衰退しいつかは滅亡する、
国民が増えるという事は、子供が生まれるという事である。
同性婚が増えれば子供は減るという事である、
国の未来を考える王族にとってはまずかろう、仮に自分自身は同性愛者であったとしても。
その思いも理解できるから、オモイカネは理解している。

だが、理解はしてるが「それって結局同じ意味では?」と突っ込みたくなる時はある。

例えば、異性愛者のタジカラヲとクノイチで、同性愛は私の趣向ではない、
なんなら同性同士で体液交換など気持ち悪いと考える者がいたとする。
そのタジカラヲとクノイチが恋愛し、結婚し、子供が生まれたとする。
一緒に住み、恋人から家族となり、いつしか互いの性行為がなくなり、
そのうち体液交換なんて気持ち悪いと考えるようになったとする。

この現象をオモイカネは「それって結局同じ意味では?」と思っている。

同性愛者は少数派だから大変だろうと考えるタジカラヲもいるかもしれないが
そのタジカラヲは、クノイチから見て少々好みに合わない容姿だったとする。
そのタジカラヲは、同性愛者は少数派だから大変だろうって、
おいおい、お前よりも選択肢多い方だよ、と、突っ込みたくなる時はある。

同性愛者は同性愛者同士の合図、暗号、シグナルがあり、
その特殊なシグナルを感じとっていると考えるタジカラヲもいるが
いやいや、お前ら異性愛者も特殊なシグナルを出し合っているだろう。

たとえば異性同士の食事会で、終始ビジネスの話を行い、帰り際に「家に来ないか」と誘うのは非常識だろう。
さっきまでお前はそんな事を考えていたのか、時間を返せという話であるが、
終始互いの異性の好みの話をし、最近一人で寂しいという話を共感し合った帰り道に
「家に来ないか」と誘っても違和感は無い。
だってお前ら終始シグナル出し合ってただろという話である。

そんな二人が結婚し、子供が生まれてからは、互いの体液交換なんて気持ち悪いと考えるようになった時に、
オモイカネは「それって結局同じ意味では?」と思っているのだよ。

 

結局は、「好みの問題である」これにつきる。
性別の問題ではない、好みの問題なのである。

オモイカネは理解してるので
「どちらでも問題ありません」という思慮深い者もいれば
「食えりゃなんでもOKッス」という思慮は浅いがある意味深い者もいる。
それでもやはり、最後は食欲の話と同じである。

人は「好み」のものを食べたいのである。
そして、恋愛としても人生のパートナーとしても不変の者達同士の事を相思相愛と呼ぶ。
異性愛も同性愛もそれが相思相愛であれば幸運である。
神様のご褒美であろうか。

最初から惹かれ合い、好みも同じ、例え違っても相手の苦手なものは代わりに食べてあげられる役割分担、
互いに目に入れて美しく、声にも癒され、互いの匂いが良い匂いであり、
肌を寄せ合い温かく安心できる者達の事を相思相愛と呼ぶ。

その相思相愛である踊りの得意なオモイカネと涙ボクロの可愛いらしいクノイチは手を繋ぎ、今日も旅をする。
二人は運河の流れに乗り、温泉の湧く宿場町ウム・ダへと来ていた。
目的は鉄の義足を作った鍛冶師に会うためである。
芸術家としてその鍛冶師に謁見するためにこの地へとやってきた。

湯煙と硫黄の香りが包むこの町で、
温泉に入り、浴衣に身を包み、似顔絵を描いてもらい、射的で景品を落とし、
その地の社で手を合わせ互いの健康を祈り合っていた相思相愛の二人が
鍛冶師に出逢えますようにとお願い事をしたら、声をかけてくる者がいた。

 

「君たちは仲睦まじいなあ、互いに健康を祈り合うなんてすばらしいなあ」
と、語尾に「しいなあ」と付ける者が、
「鍛冶師さんは山奥にあるチンケな村の温泉にいるらしいなあ」
と道案内をしてくれる事になった。

その山奥の村につくと、村人Cと書かれた浴衣を着る人が出迎え
「こーんなチンケな村によーきなったー」
と歓迎した。

AとBはどこにいるのかと疑問に思ったが、それは置いておき、鍛冶師の居場所を聞いたが
「こーんなチンケな村によーきなさったー」
としか答えてくれない。

この台詞しか与えられていないのだろうと思ったところに道案内をしてくた人が教えてくれた。
「ここはこちらの女将さんがきりもりする3食昼寝付きの桃源郷のような場所だよ~」と。
村人Cは女将さんであった。

踊りの得意なオモイカネが
「女将さんだったんですね」と驚くと

「人生いろいろあって家業を継ぐことにしたんです」
と答えてくれた。

「ちゃんと台詞あるじゃないですか」
と突っ込むと、しいな~の人は
「僕はさ行を継ぎました」と、どうでも良い事を言ったあとに

「ここは時間の流れがとてもゆっくりしている桃源郷のような場所だよ、
ここはいろんな世界と繋がっているらしいな~、この前は別の星から修行に来ていた子がいたよ。
たったの数か月だけど何年間も修行したのと同じ効果が得られて強くなったらしいな~、君はその子に似てるね」
と、重要な事を教えてくれた。
踊りの得意なオモイカネは、しいな~の人に気に入られたのかその子と同じ名前で呼ばれる事になった。

鍛冶師はさらに山奥にある温泉でゆっくりしているとの事だったので、
垂直の崖を必死に手足を使って登る事になったが、
なぜか、しいな~の人は二足歩行で登って行くのを見て、只者ではないと踊りの得意なオモイカネは思った。

崖を登ると温泉の主である熊三兄弟が現れた。
「ツキノワグマ君、ヒグマ君、グリズリー君だよ」
と、しいな~の人は教えてくれた。

「僕はツキノワグマ君を相手にするから、残りは君たちでよろしく」
と、強そうな熊を回されてずるいと、踊りの得意なオモイカネは思った。

無事に熊三兄弟を倒すと、
「今日は熊鍋パーティーですね」と女将さんは喜んだ。

女将さんもこの崖を軽々登ってきたのであれば、只者ではない、と踊りの得意なオモイカネは思った。
二人も相思相愛なのですか?と聞いたが、はぐらかされた。
そしてその熊鍋につられて鍛冶師が現れた。
お腹がふくれたあとは皆で温泉に入りながらこれまでの経緯を語った。
女将さんも、しいな~の人も、鍛冶師も、熊三兄弟も、真剣に聞いてくれた。
なぜか熊三兄弟は復活していた、さすが温泉の主である。

 

温泉で鍛冶師は語った。
「職人は仕事のためなら何を犠牲にしてもいい、それが例え人であってもだ。
だが、その仕事で人を救えるのなら何を犠牲にしてでもその仕事は最後まで遂行する。
それが職人というものだ」

と、踊りの得意なオモイカネの親、芸術家と同じ考えである事を伝えると
職人と芸術家の決定的な違いを教えてくれた。

「職人というのは依頼主があって成り立つ仕事であり、客の要望に応えるために全力を尽くす。
出来上がった物には魂が宿るが、それはその客一人だけの物だ。
客の命(LIFE)、生活(LIFE)、人生(LIFE)の一部としてあり続ける物を作るのが職人って奴だ。
最後に『人』って付く職業はそんなもんだ。
対して、芸術家の仕事は依頼主はいなくても成り立つ。
自らの欲求、魂が求める要求に全力を尽くす。
一個人の都合なんか考えなくてもいいわけよ、いや、考えちゃいけないのさ。
出来上がった物には魂が宿り、それは誰かの物ではなく人類の財産だ。
誰かの命(LIFE)や生活(LIFE)、人生(LIFE)に深く関わり続ける物を作るのが芸術家って奴だ。
最後に『家』って付く職業はそんなもんだ。
そういった意味では対局にある職人と芸術家だが、共通している事が一つだけある。
それはてめえの仕事に責任を持つって事だ。
てめえの仕事に責任取れなきゃ、もうそいつはおしめえよ。
ああ、あと、一つだけ、職人に合って芸術家に無い物を教えてやる、そいつは職人(しょくにん)気質(かたぎ)よ。
そういった意味では職人って奴は芸術家よりも頑固で気難しいぜ」

踊りの得意なオモイカネは、この職人の気質に感銘を示し、
芸術家として職人(しょくにん)気質(かたぎ)を学ぶために鍛冶師に弟子入りし、刀鍛冶修行に励んだ。
その間、涙ボクロの愛くるしいクノイチは女将さんからジビエ料理と野山の駆け巡り方を教わり、
しいな~の人からは垂直の崖の二足歩行と、渓谷への飛び降り技術を二人そろって身に着けた。

 

修行に励んで数年が経ったある日踊りの得意なオモイカネはついに職人気質を身に着けた。
作り上げた刀は自分自身の一部であり、人類の財産となるものだった。
その刀は『人を切らない剣』である。
師匠に勝るとも劣らない切れ味の剣であるが、剣の意思で人を切らないのだ。
踊りの得意なオモイカネは職人気質を持って芸術品を造り上げたのである。

完成した剣を師匠に見せようとしたが、師匠はしばらく留守にするとの事で下山していた。
そこにやってきたのは、顔を包帯で巻いた者。
この桃源郷のさらに山奥にあるアプス山脈を監視するガーディアンのクノイチであった。
鍛冶師に用がありやってきたのだが、不在を聞くと山奥へと帰っていった。

「弟子の自分が役に立てれば」
と思い、踊りの得意なオモイカネと涙ボクロの愛くるしいクノイチは走って追いかけた。

しいな~の人が
「あ~、そっちから出ちゃだめらしいな~、来たところから出ないと、ここにいた年月がそのまま経ってるらしいな~」
と言いながら歩いて追いかけたが、しいなの人は走らない人なので、追い付かずに、10歩くらいで諦めた。
「まあいいか~、戻ってきてきたら教えてあげれば問題ないらしいな~」と呟いて。